勅を奉るに請に依れ

助からないと思っても助かっている

応永初期における伝奏の政治的役割

はじめに 
 室町期の国家構造について、いかに把握されるべきか。この点をめぐって、研究史上、様々な視角から論じられているが、大局的に見れば、次のように整理できると思われる。
 第一に室町幕府に関する研究が挙げられる(1)。幕府権力と大名権力の関係、幕府権力の二元的性格(主従制的支配権・統治権的支配権)、将軍権力と管領権力の関係を説いた研究などがあり、いずれも主に幕府や武士の動向を主軸として論じたものである。
 第二に、朝廷や公家勢力の動向に注目した公武関係の研究が挙げられる。幕府による朝廷権力の吸収過程を研究したもの、幕府・朝廷相互の個別的交渉、特にその要となる伝奏についての研究が進められている。
 伝奏とは、上皇天皇に近侍し、奏聞・伝宣のことにあたった朝廷の役職である。幕府から朝廷への奏聞は、鎌倉時代は関東申次南北朝期は武家執奏を経て伝奏に通じていたが、義満政権のころに武家執奏が廃止され、幕府と伝奏が直接接触するようになる。さらに伝奏が義満の意を受けて奉書(伝奏奉書)を発するようになり、幕府の公家・寺社勢力統制において重要な役割を担っていたものと考えられている。
 本論では、この伝奏について研究をおこない、義満政権下における伝奏の役割と意義、その位置づけについて考察する。伝奏については過去に多くの研究がなされており、まずはその先行研究を整理して、論点と問題意識を確認する。
第1章 伝奏に関する先行研究とその論点
 伝奏の定義と、その基本的な性格について。
 もともと「伝奏」という言葉自体は、取り次ぎ奏聞することを意味し(1)、後白河院政下においては、高橋泰経が伝奏の任についていたことを確認することができる(2)。また、上皇に近侍していたため、「院伝奏」と呼ばれていたようだ。(3)。
美川圭氏は当時の院伝奏について、治天の君である院の側で主に貴族の奏事を院に「伝奏」「申次」する院司である、と定義し、さらに院伝奏および関東申次の成立と展開を考察された(4)。そのなかで院伝奏については、寛元四年(1426)後嵯峨院政下において、吉田為経、葉室定嗣の2人を院伝奏に補し、両人が隔日に出仕して、関東申次の取り扱う事項以外のすべての奏事を伝奏することになって定制化したことを示された。また、院伝奏を院評定に加え、その奉行となすことが原則となり、院伝奏が朝廷内の重要な地位を占めるにいたった、と述べられている。
本郷和人氏は鎌倉時代における、朝廷内の訴訟手続きの流れを分析された(5)。まず①職事が自らに付された文書を要約(目録にとる)し、それを伝奏に託す→伝奏は上皇の判断を求め、仰詞を書き、日付を入れて職事に返す→職事は②の案文を2通作成し、銘を加え、伝奏の名を書いて、1通を上皇に、1通を伝奏に送る→職事の手元には②の形の目録が残っており、それを口宣・宣旨の名で上卿に伝える。という流れを示された。
伝奏は鎌倉末期から南北朝期にかけて発展していき、朝幕交渉などに重要な役割を果たすようになる。続いて、南北朝期の公武関係と、当時の伝奏に関する先行研究を整理する。
 伊藤喜良氏は、朝廷側の重要問題の裁決が、南北朝初期から「武家執奏」と呼ばれる、武家から公家への申し入れによって左右されているとし、武家による諸権限奪取を示された(5)。伊藤氏は、最も典型的な事例として東寺領荘園山城国上桂荘をめぐる所務相論をとりあげ、裁決までの流れを、文殿勘奏→院宣→(当事者不満のため)幕府に出訴→幕府が審理することにつき院より授権→幕府審理→幕府執奏→院宣という形態で示し、ここから、公家側の裁決過程において、幕府側が意見を執奏することによってはじめて正式な裁決とすることができる、という幕府側の意識、公家側で一旦決定しても、当事者が不満な場合は幕府に出訴して、その執奏を請うことは当然であるとする意識を読み取っている。公家所領の安堵についても、鎌倉後期から公家独自の諸権限は崩壊する様相を見せ始め、南北朝期には武家執奏→安堵綸旨・院宣という形態が定着し、さらに永徳年間頃から安堵綸旨さえ見られなくなり、義満の御判御教書、あるいは管領奉書によって公家所領の安堵が行われていることを指摘している。幕府は「武家執奏」を使い、朝廷権力の空洞化及び接収を進めていったが、それを可能とした理由について伊藤氏は、当時の社会状況・人々の意識の変化を挙げられている。鎌倉後半期より職の重層的関係の崩壊が始っており、南北朝の内乱は、職の重層的な荘園支配体制から一円的支配体制への移行過程に起こった混乱であり、土地の一円的支配に見合った政治権力を模索する時期であった、としている。職の体系が動揺した時期において、院宣・綸旨には強制力がなく、管領施行・守護遵行・両領打渡・当事者の請文提出といった手続きを経た将軍の安堵御教書のほうを人々は支持した。また、院宣を無視し、あげく「泥土」の中に院宣を踏入れるという事例を挙げ、「公家勅裁地」における院宣・綸旨に対する人々の意識の変化を示されている。また、佐藤進一氏が注目した(6)、「元弘没収地返付令」を考察し、それが在地領主層だけでなく荘園領主を含む政策に発展し、王朝貴族・寺社本所領についても同様の所領保全政策が出されていることを指摘している。北朝権力が確立されていない時期における、尊氏のこれらの政策によって、寺社本所領・武家領区別なく庄官・名主層が自らの権益の擁護・拡大のために幕府に結集していくのが南北朝期の特徴であり、在地勢力・南朝方との緊張関係の中から、幕府による既成事実が一つ一つ積み重ねられていき、在地領主・荘園領主を政治的に結集させた幕府は、応安の半税令によって下地所有の混乱を収束させ、一円的土地所有の上に立つ新たな権力として、義満政権が出現した、とする。
 森茂暁氏も同じく「武家執奏」について検討を行っている(7)。森氏は、幕府により朝廷に対してなされる執奏のなかで、史料の上で最もその形態と方法を明瞭に知りうるのは「武家申詞」であるとし、これが鎌倉時代の「関東申次」と類似していることを指摘した。南北朝時代の公武交渉の仕方は、鎌倉時代のそれの発展延長線上に置いて考えてよい、とした上で、公武交渉に関する資料の検討を行い、訴訟、所領の安堵・給付・返付、家門・家督、官位・役職、寺官・社官・僧位、出仕停止・罷免・赦免、践祚・即位、改元勅撰集の撰進、行幸、祈祷など、本来朝廷がすべき事柄について、武家執奏が深く、広く関与していたことを示した。また、このように幕府が公家に対して強い発言力を得た理由として、朝廷に対する幕府の経済的援助を挙げられている。
 このように、伊藤氏、森氏は、公武交渉において、武家執奏が極めて重要な任務を担っていたことを証明された。しかし、武家執奏は南北朝末期(永徳年間)には姿を消し、その役割は「伝奏」へと継承される。次に、伝奏と武家の公家支配について見ていく。
 伊藤氏は、鎌倉時代以来上皇から補任されて朝廷と幕府・寺社間の申次を任務とした伝奏の公卿が、応永年間に義満の吏僚化し、義満の「仰」を奉じた御教書、すなわち伝奏奉書を発給するに至った、と説かれた。また、伝奏の任務・役割を、自らの管轄内のことにおいて、将軍と幕府奉行人との間の意志伝達である、とした(8)。
 富田正弘氏は、義満政権を「公武統一政権」と規定している(9)。鎌倉後期以降の伝奏は国家命令発令機関である天皇―弁官・蔵人系統に「治天の君」の意思を伝達する存在であったが、義満はその「治天の君」の地位を奪取し、伝奏は「公家側の政務」に属すると同時に室町殿の命令権下に置かれるようになった。室町殿は、院政=親政における治天の王権と同体化、すなわち旧来の公家政権の目的と機構をそのまま利用した公家政権の丸抱え的な、伝奏と伝奏奉書による院政的な公家支配を行った、としている。また、国家的な祈祷・仏事、寺社詣、諸国遊覧、参内・奏慶、行幸、遊芸などの諸行事に寺社、貴族を参加させ、貴族・門跡に偏諱を与えることにより、武士ばかりでなく権門をもその主従制的支配の下に組織できた、としている。
 小川信氏は、伝奏の機能と義満政権の関係について考察し、鴨社に関する伝奏の活動の検討から3つのポイントを示された(10)。第一に、天皇に近侍して宮中の事務に携わり綸旨の発給などにあたる職事が、表面上は後小松天皇の綸旨の形を採りながら内実は義満の旨を承けた奉書を発給している点から、義満政権が伝統的な王朝の支配機構をそのまま公家衆・寺社支配に利用したということ。第二に、幕府奉行人の書状が併用されている点から、義満本来の立脚基盤が幕府機構にある以上、幕府機関による所定の発給手続きを経て始めて幕府法上の有効性をもった裁決になること。第三に、伝奏をして公武両方の機関に義満の意思を伝達させている点から、伝奏が義満に従属してもなお、朝廷と幕府・寺社との連絡にあたる公卿としての本来の性格を喪失せず、幕府機構内の職掌には転化していないことを示していること。これらのポイントから、室町時代における伝奏の任務を、当該事項に関する北山殿または室町殿の意思決定に参画し、その結果を直接当事者たる公家衆・寺社に伝達して実施を促し、また必要に応じてこれを朝廷・幕府の機関に伝達して発令させることとされた。さらに、北山殿・室町殿に対する伝奏の従属関係は、あくまでも所轄事項に関する限りでの奉仕にとどまり、武家の支配機構における従属関係とは性格を異にするものとし、室町政権を「公武統一政権」と規定する富田氏の論を過大評価だとされた。
 森茂暁氏は、初期段階での伝奏の動向について検討し、武家執奏より伝奏への移行の様子とその支配機構上の意味を考察している(11)。第一に、武家執奏を務めていた西園寺実俊が永徳年間頃から史料的に確認できないことから、この時期に、武家の執奏は西園寺家を仲介とせず、直接に天皇の側近たる伝奏に付されることができるようになった、つまり室町幕府鎌倉幕府以来の公武交渉の伝統的な枠組みを取り払ったこと。第二に、伝奏である万里小路嗣房が康暦~永徳年間にかけて、特に幕府よりの奏事を専ら受理する「武家」伝奏のような行為を見せたことが、室町殿と公家たちの緊密な関係を示している、とされた。さらに、応永二年義満が出家し法皇に擬したとき、義満の息のかかった伝奏たちによって、伝奏奉書の本格的発給という事態を迎えることができた、と述べられている。
このように、伝奏を中心とした室町時代の公武関係については、多くの論を見ることができる。しかし、室町殿の政権下における伝奏の位置づけ、ならびに室町殿の政治体制をどのように評価するかについては、富田氏の論と伊藤・小川両氏の論とが対立しており、いまだに決着を見ていない。また、室町殿がなぜ伝奏を利用して公家・寺社勢力の統制を図ったのか。なぜ伝奏でなくてはならなかったのか、という必然性についても、明確に述べられているとは言いがたい。
本論では、主にこの2つの論点について自分なりの解釈を述べ、伝奏の役割とその意義について明らかにすることを目的とする。伝奏については時期によってその性格を変化させるが、本論では南北朝期から応永年間を主な研究範囲とする。


 注釈
(1)佐藤進一「幕府論」『新日本史講座』〈封建時代前期〉所収(中央公論社 1949年)
室町幕府論」岩波講座『日本歴史』7、中世3 所収 (岩波書店 1963年)
(2)橋本義彦「院評定制について」(『平安貴族社会の研究』吉川弘文館 1976)
(3)『吾妻鏡』文治元年十一月二十六日条
(4)『源平盛衰記』巻四十六「時政定平上洛附吉田経房御廉直筆」
(5)美川圭「関東申次と院伝奏の成立と展開」(『史林』67巻3号 史学研究会 1984)
(6)本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会 1995
(7)伊藤喜良「室町殿と武家執奏」(『日本史研究』1974年
(8)佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社 1965年)
(9)森茂暁『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版 1984年)
(10)伊藤喜良「応永初期における王朝勢力の動向―伝奏を中心として―」
(『日本歴史』307号 1973年)
(11)富田正弘「室町時代における祈祷と公武統一政権」
(『中世日本の歴史像』創元社 1978年)
「室町殿と天皇」(『日本史研究』319号 1989年)
(12)小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館 1980年)
(13)注(7)と同じ

第2章 伝奏とは
第1節 伝奏についての基礎的考察
 まずは、伝奏についての基本的な情報を整理する。
 伝奏制度が確立した後嵯峨院政下においては、伝奏は結番制を定められていた(12)。結番とは、順番を定めて交代で出仕することであり、院に伝奏が不在であるという状況をなくそうとしたものだと思われる。後嵯峨院政以後もこの制度は引き継がれていたようであり、建武新政においても結番制が採られている(13)。伝奏は5人ずつ4つの組(注13の史料では「一番、二番」と記されている)に配されており、計20名。組はそれぞれ一月に五日間の出仕日が決められており、月の三分の二は院において伝奏による奏事が行われていたことがわかる。建武新政という事象もおそらくは関係しているだろうが、後嵯峨院政時の2人から10倍にもなった人員とともに、朝廷が数多くの問題を伝奏を使って解決しようと動いていたことの証左と言える。
 北朝光厳院政下においても、伝奏の結番制が採られていたようである。ここでは伝奏は7名、出仕日は一月に六日となるが、評定衆11名のうち過半数の7名が伝奏として名を連ねており、院政において引き続き重要な地位を占めていたことがわかる(14)。
 伝奏の勤務形態については、これ以降の史料が見当たらないが、伝奏の語は史料に散見されることから、南北朝期を通して伝奏という役職は存在していたものと思われる。
 続いて、議奏との関係について。
 議奏とは、文治元年(1185)十二月二十九日に設置され、朝廷で重要な朝務を合議して奏上することを職務とした役職である。これは同年十二月六日の源頼朝の院奏によって置かれることになったものであり、神祇・仏道以下の重要な朝務はすべて彼らの合議によって計らい行うことを要請された。室町時代議奏については不明な点が多いが、伝奏と少なからず関わりがあったようである。『愚管記』永和元年七月五日条を見ると、前権大納言三条実音が後円融天皇議奏を所望したが、前関白近衛道嗣の「先被仰伝奏之後、次第登庸常事候カ」という指摘により、実音は結局伝奏に補されることとなる。このように、議奏は伝奏より格上の役職であったことがうかがえる。
 続いて、伝奏の種類とその職務について。
 伝奏はいつごろからか分業化され、それぞれ担当する部署を持っていたようである。南北朝期には、山門伝奏(15)、神事伝奏(16)、武家伝奏(17)の名を確認することができる。その役割については、例えば武家伝奏ならば「武家事可令執奏給者」(18)というように、自身の担当する部署に関することを取り次ぐものだと思われる。また、山門伝奏については「山門伝奏事如元可申沙汰之旨、可仰宣明卿云々」(19)とあり、貞和三年より前の段階ですでに伝奏の分業化がなされていたことがわかる。『建内記』でも同様に伝奏の分業化を確認することができる。「南都伝奏事、上古ハ以南曹弁毎事申入公家近来号伝奏、別而被付奉行、公家・武家ニ伺申者也、嗣房以来事也」(20)とあり、ここから南都にも伝奏が置かれていたこと、設置されたのは康暦年間であること、初任は万里小路嗣房であることがわかる。また、南都にはそれ以前にも南曹弁という役職が置かれ、所領のことなどを申し次いでいたようである(21)。南都伝奏の職務については、同じく『建内記』の「南都伝奏事、近年不被置之、仍寺社訴訟相積欤」(22)という記述から、南都の訴訟を取り次いでいたことを類推することができる。この他にも、石清水伝奏(23)、鴨社伝奏(24)、長講堂伝奏(25)の名を確認することができる。
 このように、室町期には数多くの伝奏がそれぞれの担当をもって職にあたっていたことがわかる。このことから、朝廷、または幕府が、寺社勢力から吹き出してくる訴訟などの問題に対して、積極的に解決していこうとする姿勢を見ることができる。古くは白河法皇に「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆かせた寺社勢力は、南北朝期においても強大なものであった。応安七年(1374)には「然而神木在洛之間、依難被行鬼間議定」(26)とあり、理由は不明であるが、神木をともなった強訴が行われ、鬼間(平安京内裏の清涼殿の一室)で行われる予定であった議定が中止となる事態が起こっている。『寺院細々引付』にも、寺社勢力の脅威を示す史料が残っている。応安二年(1369)、南曹弁に就いていた中御門宣方が興福寺によって放氏されたのだ(27)。中世における放氏とは、氏人が氏族にとって不都合なことをした場合、制裁として除名され、氏族の有する諸特権を取り上げることである。この場合、宣方が「当社領等役夫工米免除事、依執奏無沙汰」(28)というように、興福寺の訴えを取り次ぐことをしなかったために、藤原氏の氏寺である興福寺が宣方を放氏したのである。宣方は一週間後に許され続氏されるのだが(29)、興福寺はこの放氏という制裁的手段をしばしば使っていたようで、史料でそれを確認することができる(30)。
 このような寺社勢力の脅威に対し、効果的であると考案されたのが、伝奏を介した問題解決システムであり、すみやかに問題を解決する筋道を寺社に対して示したものだと考えることができる。また、寺社においても、自分では解決できない問題については、裁決の力を持っている朝廷、または幕府に頼らざるを得ず、寺社とそれを統制する朝廷、幕府の利害が一致したことにより、伝奏制度が発展していったのではないだろうか(31)。三代将軍として、朝廷権力の接収に乗り出す義満が、この制度に目をつけ、寺社統制に大いに利用したことは自然な流れと言えるだろう。この点については次節で言及する。
 続いて伝奏の選解任について。
 伝奏は朝廷の役職であるため、形式的には天皇上皇に補任権が存在していたが(32)、幕府による人事権への介入もあったようである。『建内記』に「頭弁入来、南都伝奏事予已治定之由、中山示社家雑掌云々、談慣例其後可承之由、昨夕執柄承了、如何由答了」という記述があり(33)、ここから南都伝奏については幕府の同意が必要であることがわかる。
伝奏の人事について詳しく記されているのはほとんど見当たらず、幕府がどの程度人事に影響を持っていたのかはよくわからない。しかし、当時の朝廷と幕府のパワーバランスや、義満が広橋兼宣(当時従二位権中納言)を責勘した記事(34)を見るに、伝奏の人事権についても幕府の意向が大きく働いていたものと考える。ただし、朝廷が独自に伝奏を任免しているケースもあり(35)、朝廷も一定の裁量権は保持していたようである。
本節では、南北朝期から室町期の伝奏について、基本的な情報を整理した。これまでで、南北朝初期には伝奏結番制が採られていたこと。伝奏の任免権については朝廷が保持しており、幕府もそれに関わっていたこと、伝奏はそれぞれ担当する部署を持っていたこと、などがわかった。次節では、義満政権下、特に応永年間における伝奏について分析する。


(12)注4と同じ
(13)『建武記』建武二年三月十七日条
(14)注4前掲の森氏論文157項から160項に、東洋文庫所蔵の「制法」(全1巻、未活字、巻頭に全文の写真掲載)後半部が掲出されており、それを参考とした
(15)『園太暦』貞和三年七月二十日
(16)『師守記』貞治三年二月十一日
(17)『西園寺文書』文和二年十月十九日
(18)注(17)と同じ
(19)注15と同じ
(20)『建内記』嘉吉元年十月十九日条
(21)『寺門事条々聞書』応安2年六月十八日
(22)注20と同じ
(23)『建内記』永享元年三月三十日条
(24)『建内記』正長元年九月二十二日条
(25)『建内記』嘉吉元年十一月七日条
(26)『愚管記』応安七年四月十七日条
(27)『寺院細々引付』応安二年六月十八日条
(28)注26と同じ
(29)『寺院細々引付』応安二年六月二十五日条
(30)『愚管記』応安七年四月十七日条に「但太閤・藤中納言等、為放氏之時分之間」という記述がある。太閤とは二条良基、藤中納言とは柳原忠光のことであり、両人とも藤原氏である。
(31)南北朝期における伝奏の具体的な活動については、森茂暁『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版 1984年)に詳しい。伝奏が様々な場面で活躍していたことを史料に則して実証的・網羅的に整理されている(第3章「北朝の政務運営」)。
(32)『建内記』嘉吉元年十月十九日条に「勅定」をもって伝奏を任じる旨の記述がある。
(33)『建内記』嘉吉元年十一月七日条 この史料の解釈については伊藤氏前掲論文を参考とした
(34)『教言卿記』応永十二年十二月二十二日条 兼宣が密談を行ったとして責勘されている。翌年四月十日に復任。
(35)『公卿補任』によると、応永二十年六月二十四日に伝奏であった甘露寺清長が出仕を停止させられ、同二十九日、新たに松木宗量が伝奏に任じられている。『満済准后日記』応永二十年六月二十七日の記事によると、清長が罷免されたのは所領関係の狼藉によって帝から咎めを受けたことが原因。


第2節 伝奏の発給文書の分析
 伝奏は応永年間に多数の文書を発給している。本節ではその文書の特徴、性格を分析することによって、応永年間における伝奏の働きを整理する。まずは、応永年間に誰が伝奏の任についていたのか。
 万里小路嗣房については、応永二年の『略安宝集』の端書に「伝奏万里小路殿奉書」(1)とあり、嗣房が伝奏であったことを確認することができる。広橋仲光についても、応永十二年に一乗院良兼から仲光に宛てた書状のなかに「宇多郡事、被仰伝奏御書」(2)とあり、仲光が伝奏であったことを確認することができ、同様に日野重光(3)と坊城俊任(4)についても、伝奏であったことが史料に残されている。また、はっきりと記されてはいないが、広橋兼宣も義満の意向を受けた奉書を発給している。彼も他の4人と同様に、伝奏であったものと思われる。
 以上、応永年間の伝奏について整理した。続いて伝奏の発給文書の分析に入る。
史料全文掲載(A)(5)
 史料に「御教書」とあることから、これを伝奏の奉じた「御教書」とする。ここでは「仰」の主体が誰であるか、ということが問題となる。応永二年四月十七日、義満は春日社に祈祷料所として大和国宇智郡を寄進し、御教書を発しているが、その施行については伝奏万里小路嗣房が行っている(6)。また、応永十三年四月二十八日、義満は興福寺大和国十一跡を、春日社に同国箸尾跡を寄進し、御教書を発しているが、同年六月三日、一乗院良兼が日野重光に宛てて寄進についての礼状を出しており、重光が施行を行ったものと思われる(7)。このことは、義満が有力寺社に対する政策を、伝奏を解して行っていたことを示すものであると考えることができる。また、伝奏坊城俊任が武家奉行再等上野入道に奉書を下しているケースもある。
史料全文掲載(B)(8)
 この場合、幕府奉行人に命令することができるのは、義満以外に考えられない。これらのことは、史料(A)、または(B)の「仰」の主体が義満であることを示しているものと思われる。
 当時の義満が権力の絶頂にあったことは周知の通りである。森茂暁氏は、尊氏以降南北朝期を通じて武家の介入による廷臣の叙任事例を列挙され、それによれば、康暦の政変後、大臣の人事についてまで執奏する事例が登場することとなる(9)。その後、応永元年十二月に義満が将軍職を辞し、太政大臣を経て出家する段階になると、義満は朝廷の人事に対して直接介入するようになっていく。今谷明氏は、義満の「仰」が人事決定であるかのように記された当時の公家の日記を取り上げ、また、任大臣宣命の小折紙を義満が自筆で発していることに着目され、これらの分析から、応永年間の段階において義満が事実上の任命権者であり、半ば形式的な任命権者の域にまで踏み出している点について考察された(10)。その権力は当時の公家をして「恐怖々々」(11)と言わしめるものであり、また、太政大臣を辞して出家し、俗界の官職・地位を超越した権力を持った当時の義満が、朝廷の役職である伝奏に自身の意を奉じさせる、という行為に別段不自然なことはない。以上の点を鑑みるに、史料(A)(B)の「仰」の主体は義満であるといって間違いはないだろう。しかし、これによって応永年間に伝奏が奉じた「仰」の主体を全て義満であるとすることはできない。なぜなら、伝奏はもともと朝廷の役職であり、上皇天皇の「仰」を奉じるものだからである。ただし、当時の幕府と朝廷のパワーバランスからいって、特別なことがない限り「仰」の主体は義満としてよいものと考える(12)。また、伝奏が出家してなおその地位にあるのは、室町殿の政治が確立されて以後の特色であって、公家の院生や親政の下においては例のないことであった(13)。
 ここまでで、史料(A)(B)の「仰」の主体が義満であること、また、義満が伝奏を介して寺社政策を行っていたことがわかった。そこで今一度、伝奏の発給文書を整理したい。
富田正弘氏は、史料(A)(B)のような形式の文書について、「伝奏奉書」であると定義された(14)。この文書の特徴として、①日付において年紀を欠くこと。②花押を据えず、すべて自署を認め、官途書きがないこと。③「被仰下候也、~謹言」という文言を用いることが多いこと。④一般には宛名に上所を書かないこと。以上4つのことを示された。本論ではこの定義を参考としつつ、伝奏が義満の仰を奉じたと思われる伝奏奉書を52通見つけることができた。以下に整理する。

万里小路嗣房
①応永元年十月二十八日付 一乗院良昭宛 (『京都帝国大学所蔵文書』)
 播磨房懐秀の興福寺修南院領大和勢野郷金力名の地を押妨するを停め、荘内の城郭を破壊せしむ
②応永二年八月七日付 一乗院良昭宛 (『同』)
 ①のことを重ねて下知す
③応永二年四月十七日付 一乗院良昭宛 (『略安宝集』)
 大和国宇智郡を祈祷料所として知行せしむ
④応永三年六月六日付 金剛乗院俊尊宛 (『東寺百合文書』)
 検非違使俸禄田を寺家に返付す
⑤応永三年六月二十一日付 大納言僧都宛 (『山門大講堂供養記』)
 山門講堂供養の料足を求める
⑥同年八月二十二日付 大納言僧都宛 (『同』)
 公用銭の究済を求める
⑦同年八月二十二日付 大納言僧都宛 (『同』)
 段銭の究済を求める
⑧同年八月二十三日付 大納言僧都宛 (『同』)
 山門講堂供養の料足を求める
⑨応永四年六月十一日 宝寿院顯深 (『祇園社記』)
 祇園社旅所京都大政所敷地高辻東洞印の地を社家に還付す

・日野重光
⑩応永五年七月十一日付 松木宗量宛 (『口宣綸旨院宣御教書案』)
 松木宗量をして、伊勢智積御厨及び京都中御門坊舎を管領せしむ
⑪応永十三年六月二十九日付 一乗院良兼宛 (『東院毎日雑々記』)
 大和国民十市・箸尾与同の杉本・東山両党を赦免す
⑫同年三月二十七日付 東院(光暁)宛 (『一乗院文書』)
 東院光暁をして、修南院領大和金力名を安堵せしむ
⑬同年四月十三日付 一乗院良兼宛 (『教言卿記』)
 興福寺一乗院をして舞人俊葛を扶持せしむ
⑭同年同日付 同人宛 (『同』)
 ④と同文
⑮同年六月二十一二日付 一乗院宛 (『東院毎日雑々記』)
 俊葛の御恩を正葛に相続せしむ
⑯同年四月二十六日付 一乗院宛 (『同』)
 一乗院をして大和吉野郡年貢の内半分を松林院長雅に宛行わしむ
⑰同年六月四日付 薬師院宛 (『春日社臨時御神楽之記』)
 正預祐主を上洛せしむ
⑱同年六月六日付 春日神社館宛 (『同』)
 春日社に神楽を奏して、同社山林枯槁の怪異を祈祷すること、先例に任せ遺失なきよう下知す
⑲同年八月十五日付 東門院宛 (『興福寺三綱補任』)
 池坊泰信に対する推挙を破棄する
⑳応永十四年十一月九日付 蔵人弁(清閑寺家俊)宛 (『教言卿記』)
 山科教右を従四位下に宣下せしむ
21同年十一月二十一日付 東院(光暁)宛 (『一乗院文書』)
 重ねて東印光暁をして修南院領大和金力名を安堵せしめ、供御所を懐俊に返付せしむ

・広橋仲光
22応永六年十月二十七日付 ろ山寺長老上人御房宛 (『ろ山寺文書』)
 ろ山寺をして凶徒退治の祈祷を行わせしむ
23応永七年五月二十一日付 興福寺別当(実恵)宛 (『寺門事条々聞書』)
 興福寺をして、放火等の狼藉を禁ぜしむ
24同年六月十一日付 同人宛 (『同』)
 学侶六方と衆徒との雑務検断についての相論を停止し、先例を守らしむ
25同年七月四日付 同人宛 (『同』)
 雑務検断のこと、先の沙汰を守り相論を停止すべき旨を衆徒に下知せしむ
26同年八月三十日付 同人宛 (『同』)
 上総国衙雑掌の、興福寺同国領を違乱するを停止し、当寺をしてその知行を管領せしむ
27同年九月十二日付 同人宛 (『同』)
 興福寺田楽頭の新助成を停止し、同寺造営要脚を臨時の雑事に宛てることを停止せしむ
28同年十一月十五日付 同人宛 (『同』)
 興福寺をして大和吉田荘下司龍田藤市丸の同書有土打反米を抑留するを停止し、未済分を究済せしむ
29応永八年閏五月二十六日付 同人宛 (『同』)
 使を大和に遣わして、興福寺金堂供養段銭の未済を催促せしむ
30同年十一月四日付 同人宛 (『古記部類』)
 興福寺東大寺々辺七郷を検断するを停止せしむ
31同年三月二日付 金剛乗院(俊尊)宛 (『廿一口方評定引付』)
 当寺をして祈祷せしむ
32応永九年二月十三日付 同人宛 (『東寺百合文書』)
 東寺をして祈祷せしむ
33同年九月二十七日付 唐院方丈宛 (『春日神社文書』)
 寺門をして若宮祭田楽頭人に二千疋助成せしむ
34同年九月付 宛所欠 (『一乗院文書』)
 良乗法眼をして一乗院門跡後見職、佐保田庄々務を安堵せしむ
35応永十年四月十一日付 宛所欠 (『同』)
 良乗法橋をして、故憲乗法眼御御地を相続せしめたことを存知せしむ
36応永九年四月十一日付 東院僧都(光暁)宛 (『同』)
 一乗院をして故憲乗法眼御恩地等の安堵御教書を下さしむ
37同年七月六日付 松上院御房宛 (『北野社旧記』)
 御手水ならびに祭礼を延引せしむ
38応永十年九月二十八日付 大乗院(考円)宛 (『寺門事条々聞書』)
 多武峰衆徒に宇多郡入部を止め、訴訟を経るべき旨を下したことを、寺門をして存知せしむ
39同年十月三日付 同人宛 (『同』)
 多武峰に発向した寺門若輩をして合戦を止め訴訟を経らしむ
40同年十月八日付 同人宛 (『同』)
 多武峰衆徒の悪行についての六方衆の事書を披露すべき旨、および今朝この御教書が成されし旨を告ぐ
41同年十月八日付 飯尾美濃入道宛 (『同』)
 多武峰衆徒の濫悪制止の御教書を成さしむ
42応永十一年三月廿九日付 一乗院(良兼)宛 (『春日神社文書』)
 摂津国兵庫・河上等諸関の過書を寺社造畢の間停止し、修造費に充てしむ
43応永十年十月三日付 同人宛 (寺門事条々聞書))
 摂津渡部・兵庫・小泉等の関役及び月俸を究済せしむ
44応永十一年五月二十六日付 大乗院宛 (『同』)
 岸田実円の内山禅尼慶忍を僕従と称して非分の課役を懸けることを停止せしむ
45同年七月十八日付 金剛乗院僧正御房 (『東寺百合文書』)
 東寺をして雨を祈らしむ
46応永十二年五月三十日付 東院(光暁)宛 (『東院毎日雑々記』)
 良懃、英芸等の奉行する宇智郡等五箇所を改動せざらしむ

・坊城俊任
47応永九年二月二十五日付 武家奉行斎藤上野入道宛 (『賀茂社諸国神戸記』)
 同社領越中の寒江・倉垣両荘に関する鴨社領前禰宜祐詞の訴訟を棄却する
48同年二月二十五日付 蔵人右少弁(葉室定顕)宛 (『同』)
 47と同じ内容
49同年十一月十三日付 武家奉行美濃入道宛 (『吉田家日次記』)
 新宮内裏祭領に参百卅疋を下行す

・広橋兼宣
50応永十一年正月六日付 上乗院法印御房宛 (『兼宣公記』)
 上乗院をして御修法を執行せしむ
51同年正月八日 刑部卿宛 (『同』)
 土御門有世をして外典御祭を執行せしむ
52応永十三年十二月七日 恵鏡上人御房宛 (『ろ山寺文書』)
 ろ山寺をして山城・伊勢・尾張・美濃・若狭国内の寺領を安堵せしむ

以上、義満執政時に発給された伝奏奉書を伝奏ごとに整理した。南都・山門・鴨社など、畿内の有力寺社に対して発給されていること、祈祷祭礼、権益の認定・規制、検断・私戦の停止、段銭・段米・関銭に関することなど、幅広い事象を扱っていることがわかった。前述のとおり、当時の寺社勢力は無視できないものであり、義満はそれを統制する手段として、伝奏を介した寺社政策を行っていたものと思われる。しかし、それと並行して、義満の御判御教書、管領施行状、幕府御教書という幕府側の機構を通した文書も寺社に対して発給している。これらと伝奏奉書はどのような違いがあったのか。次章では、この点について考察する。


(1)『略安宝集』応永二年七月二十九日条
(2)『東院毎日雑々記』応永十二年九月十一日条
(3)『興福寺三綱補任』応永十三年八月十五日条 「伝奏裏松殿被成下奉書」という記述がある。
(4)『賀茂社諸国神戸記』応永九年二月二十五日条 端書に「伝奏坊城俊任大納言殿也」という記述がある。
(5)『祇園社記』応永四年六月十一日条
(6)『略安宝集』応永二年卯月十七日条 同年七月二十九日条
(7)『大乗院寺社雑事記』応永十三年四月二十八日条
  『東院毎日雑々記』応永十三年六月三日条
(8)注(4)と同じ
(9)森茂暁氏前掲論文 第四章 437~446項
(10)今谷明室町時代政治史論』第二部Ⅳ「足利義満の王権簒奪過程」180~182項
(11)『教言卿記』応永十二年三月二十八日条
(12)『吉田家日次記』応永八年三月二十四日の記事に、「近年叙位除目、毎度如此、北山殿執柄御沙汰也、主上只被染宸翰許也、任人以下事、不及御計也」とあり、叙位については義満と関白で決められており、天皇はまったく口出ししていないことがわかる。このような当時の天皇が寺社政策に積極的に動いたとは考えにくい。
(13)富田正弘「中世公家政治文書の再検討」③「奉書」─伝奏奉書(『歴史公論』四巻十二号)195項
(14)富田氏は前掲の論文において、伝奏奉書の成立過程について考察されている。そこでは、①院政においては、伝奏が上皇の仰を伺い、これを奉行に伝え、奉行が御教書を発給する体制であり、親政においては、伝奏の役割を蔵人頭が務め、その下で奉行が御教書に発給にあたったこと。②伝奏は院政時におかれたものであるが、親政時にはその地位を退かねばならず、その矛盾を解決するため、後醍醐天皇の時代から親政にもかかわらず公卿の伝奏がおかれ、後光厳親政以後はこれが一般的になったこと。③伝奏から奉行にたいする勅旨の伝達は、奏事のさいに口頭でおこなわれていたが、後円融天皇親政期のころから、それが文書をもっておこなわれるようになり、これが伝奏奉書の始めであること。④やがて伝奏自身が奉行となる事例があらわれ、伝奏奉書を直接当事者に給付する事例がみられるようになったこと。以上4つのポイントを示し、これらによって伝奏奉書が成立したとされた。


第三章 義満政権における伝奏
第一節 伝奏奉書と幕府側の命令文書の比較
 第2節で整理した伝奏奉書のうち、同じ案件について幕府側の機構を通した文書とともに発給されているケースをいくつか見つけることができた。それらの史料を分析することによって、伝奏奉書と幕府側の文書との権限区分、性格の違いなどについて検討する。
 史料全文掲載ABC(1)(2)(3)
(A)、(B)、(C)は、過書(過所)停止に関する史料である(4)。
(A)は伝奏広橋仲光が義満の意を受けて発した奉書である。当時、対象とする摂津国の諸関は興福寺が管理していたようだ。それらの関所になされていた過書を停止し、税を寺社造営費にあてよ、というのが(A)である。約一ヶ月後、また興福寺に、今度は義満の御判御教書が発給され、年貢船に商買物を載せていた場合は、それらを没収するという規定が追加された。さらに約一ヶ月後、管領施行状(5)が発給され、過書停止から御所丸、御座丸、八幡丸、御判船を除外するという規定、ならびに諸権門の船に商買物を載せない、という旨の告文を問丸・船頭から徴収するという規定が追加されている。過書停止による問題点について、その都度規定を加えていった様子をうかがうことができるが、ここで注目すべきなのは、伝奏奉書が発給された後に幕府側の機構を通した文書が発給されている点である。当時においては、義満の御判御教書が発給された後、管領がそれを宛名の人に御教書の形式(管領施行状)で発給する、という流れを多数見ることができ、(B)→(C)の流れは一般的であったと思われる。問題は、(A)と(B)の文書様式の違いであり、なぜ伝奏奉書の後に義満の御判御教書が発給されたのか、という点である。(A)は一乗院宛、(B)は興福寺別当宛、ということに注目すると、おそらく過書停止の申請者が一乗院で、その申請に対する返事が(A)であり、(B)、(C)は「過書停止」の問題点を解決しつつ、段階的に正規の遵行命令へと移行していく流れであると読み取ることはできないだろうか。つまり(A)は仮決定のようなものであり、過書(関書)に関することについては、幕府側の文書がなければ正規の遵行命令とならなかったのではないだろうか。応永十四年にも、興福寺が管理していた関所についての文書があるが、そこでは御判御教書のみが出されている(6)。この事例は、摂津国の諸関を、権門勢家の名を騙って通る船があり、それによって興福寺の関役が失墜しているので、今後名を騙るものを処罰する、というものである。これも(A)と同じく、興福寺側から申請があって発給されたものと思われるが、伝奏奉書の発給は見ることができない。応永十一年の事例で伝奏奉書が発給された理由はわからないが、やはり過書に関することについては、幕府側の文書がなければ正式な命令とならなかったと考えてもよいのではないだろうか。
この事例だけでは、伝奏奉書と幕府側の文書の権限区分の違いがわからなかったので、次の事例を見てみる。
史料全文掲載DE(7)(8)
応永十年九月二十一日、多武峰衆徒が大和国宇侘郡五寺、福西(興福寺領)に侵入し、そこで合戦が起こる(9)。これを受けて、幕府は九月二十八日、伝奏広橋仲光をもって奉書を出し、多武峰衆徒に入部を止め、訴訟を経ることを命令したことを興福寺に知らせた(D)。ついで十月二日、今度は将軍家御教書を出し、興福寺六方衆の多武峰に発向することを停止すべきことを下知する(E)。しかし、将軍家御教書が興福寺に着いたときにはすでに六方衆が発向した後だったようで、翌三日に伝奏仲光の奉書で停戦を命じている(10)。史料にはわざわざ日付の下に「戌刻」と記されており、これは急遽出されたものだと思われる。また、大和の国人のなかには六方衆とともに多武峰に発向したものもいたようで、翌々五日には国人に宛てて、彼らの参戦の停止を命じている(11)。この間六方衆は多武峰衆徒の悪行を訴える事書を(伝奏を通して?)義満に提出したようで、同月八日、義満は多武峰衆徒の濫悪を厳密に沙汰する御教書を成すべき旨を伝奏仲光の奉書で伝え(12)、同時にそのことを同じく仲光の奉書でもって興福寺に伝えている(13)。この事件は同月十二日、多武峰側が、造営要脚土打段米を抑留しないこと、萩原以下の押妨の地を返付すること、平尾上中富荘及び宿院佐保殿を希望しないことを誓訳する請文を興福寺側に提出し、翌13日に六方衆が帰寺して無事解決するのであるが(14)、一連の流れから、伝奏奉書と将軍家御教書の性格の違いなどを推定することができる。
この事件に関して、急遽出されたと思われる註10の事例を除けば、伝奏奉書は義満の意向を当事者に伝達する役目を担っており、直接なんらかの遵行命令を下している訳ではない。それに対して、将軍家御教書は、当事者に直接遵行命令を下す役目を担っている。当時、興福寺大和国における守護職の権能を付与されており、大和国で合戦が起こるという事態は、軍事・治安に関することであるから、ここでは大和守護として興福寺を扱わねばならず、ゆえに将軍家御教書をおって遵行命令を下したのだろう。また、ここで前の事例において幕府側の文書(御判御教書、管領施行状)が出されていることを考えると、過書に関することについても守護職の権能の範囲内だったことが推定される。このことから、伝奏奉書の管轄区分はあくまで寺社に関することに限定されている、と考えることができ、註10の史料のように、伝奏奉書は緊急または臨時に義満の意を伝える手段としても使われていた可能性がある。また、前の事例の(B)(C)のように、御判御教書や管領施行状でもって寺社に命令を下す、というケースは他にも多数見られるため、幕府側の文書の管轄は必ずしも武家のことに限定されず、寺社支配の領域までカバーしていたものと思われる。伝奏を介しての寺社支配という昔ながらの手法を採りつつも、場合によっては幕府機構を利用する、という義満政権の政治体制の特徴を捉えることができる。
この事例では、伝奏が幕府奉行人に義満の意を伝える、という行為も見ることができる(注12)。前節で整理した伝奏奉書のなかに、同様の史料があったので、続いてそれを見ていく。
史料全文掲載FG(15)(16)
越中国の鴨社領寒江庄・倉垣両庄に関する祐詞県主(同社前禰宜)の訴訟を義満が棄却し、その旨を伝奏坊城俊任が蔵人右少弁葉室定顕(F)と幕府奉行人斎藤上野入道(G)に奉書をもって伝達したものである。その結果、定顕の奉書は同日祐詞(17)に、上野入道の書状は同月二十八日に鴨前社務に発給されている(18)。ここから、前の事例と同じで、基準はわからないが、伝奏奉書が最終的な遵行命令にならず、その一歩手前、当事者または執行者に上意を伝達するという役割を担うことがあることがわかる。これは、上皇天皇)→伝奏→職事(蔵人)というもともとの流れと同じであること。また、本来天皇に近侍して諸訴を掌る職事が、義満の旨を受けた奉書を発給している、ということは、義満が伝統的な朝廷の支配機構をそのまま寺社支配に利用したことを示している。
幕府機構でもって公家衆や寺社を支配するのではなく、既存の王朝機構を利用して支配を行った義満の意図としては、2つのことを考えることができる。一つ目は、既存の機構を利用したほうが効率的であったということ。寺社支配に関しては、武家出身の者より、長い間寺社との折衝にあたってきた公家、特にノウハウの蓄積があったと思われる伝奏を使ったほうが、摩擦が少ないと考えたのだろう。しかし、全てにおいて伝奏を使っていたわけではないことが、これまでの史料検討から浮かび上がってきた。まずは、伝奏の管轄範囲が畿内の有力寺社に限定されていること。これは前節で行った伝奏奉書の整理で明らかになったことで、その他地方寺社については、義満の御判御教書や将軍家御教書・管領施行状によって多くの命令がなされている(19)。また、興福寺について、大和守護職の権能の範囲に関することについては、幕府側の文書でもって命令を伝えていることが明らかになった。次に二つ目の意図としては、朝廷の支配機構を利用することによって、武家だけではなく、朝廷のトップに君臨するということである。森茂暁氏が分析されたとおり、南北朝期においても「武家執奏」という手段を使って、間接的に朝廷を操縦できたものと思われる。しかし、義満はそれに満足せず、自身がトップに立ち、直接的に公家衆・寺社勢力を支配しようとしたのだ。ここに、武家と朝廷両方のトップに君臨するという、日本史上類を見ない支配者・義満が誕生し、室町幕府武家・公家衆・寺社を完全に支配することとなったのである。しかし、これは義満=幕府側の権力が朝廷と比べて非常に大きかった、という事実に依存している体制であり、義満は実際に天皇上皇)となったわけではない。依然として王朝の支配体制は存続しているのであり、幕府の権力が失墜するか、朝廷の権力が回復するか、そういったパワーバランスの変化がおこるとき、この体制は変化していくのだが、それについて私は語る術を持たない(20)。
 
(1)『春日神社文書』(『大日本史料』第7編之六 692項)
(2)同
(3)同
(4)過所とは、古代・中世における関所通交手形のことである。中世では主として過書と記す。平安時代末以後、関所が単に交通料を徴する経済的関所と化し、それに伴い過所は交通税の免除状としての性格を強めていった。すなわち、史料(A)、(B)、(C)での「過書停止」とは、交通税の免除を停止するという意味である。
(5)管領が将軍(この場合義満)の意を奉じて出す文書を将軍家御教書と呼ぶが、室町幕府においては、先に将軍の下文・寄進状が出て、管領がそれを宛名の人に取り次ぐために出す文書も将軍家御教書と全く同じ様式であり、この場合にはこれを管領施行状と呼んだ。施行とは命令を伝達する(取り次ぐ)意である。(佐藤進一『古文書学入門』)
(6)『春日神社文書』(『大日本史料』第7編之九 377項)
(7)『寺門事条々聞書』(『大日本史料』第7編之六 310項)
(8)同309項
(9)同
(10)同
(11)同310項
(12)同311項
(13)同
(14)同312項
(15)『賀茂社諸国神戸記』(『大日本史料』第7編之5 423項) 
(16)同424項
(17)同
(18)同
(19)応永三年二月二十一日に、美濃長瀧寺をして、同寺領飛騨河上荘を安堵せしむ御判御教書を発給している(『楓軒文書纂』)。その他にも寄進、祈祷要請など、多数の御判御教書を確認することができる。五山十刹の認定も御判御教書で行われていた。応永二年十月二十二日には、将軍家御教書をもって摂津多田院領内の殺生及び竹木の伐採を禁じている(『多田院文書』)。応永三年十二月十九日には、同月十八日に発給された義満の御判子御教書を受けて、聖護院門跡道基に白河熊野社境内を管領せしむ旨の管領斯波義将施行状が出されている。その他多数管見。
(20)義満以後の公武関係については、富田氏と伊藤氏が検討を重ねられている。これについては「おわりに」で触れようと思う。


第四節 伝奏の口入
 伝奏は伝奏奉書によって義満の意を伝える、という形以外にも注目すべき活動を行っている。
史料全文掲載ABC(1)(2)(3)
 応永十三年八月七日、山城国に段銭が課された(4)。それに対して、山科教言は同月九日、山城守護高師英に、応永六年に山城東庄に発給された免状を根拠として段銭の免除を申し入れた(5)。また、伊勢貞行(政所執事)にも段銭のことを申し入れたのだが、両者ともその結果は芳しくなかったようだ。同月十三日、そのことを裏松(日野重光)に申し入れたところ、重光が守護の取り成してくれることとなった(A)。翌十四日、重光は師英に段銭のことを申し入れたのだが、師英は義満の意を伺うとして態度を保留した(B)。しかしこのことがきっかけになったのであろう、同月十七には、義満の決定が下るまで段銭の催促を停止するという守護施行状が発給されている(C)。そして同月二十四日には、義満によって段銭免除が正式に決定されるのである(6)。しかし、翌月十七には「料足不足」によって再度段銭が課され(7)、翌十八日に京済(8)という形で決着がついたのであった(9)。
 この一連の流れで注目すべきなのは、やはり伝奏である日野重光の動きだ。教言が幕府側の人間(山城守護・政所執事)に段銭免除を申し入れたときは、にべもなく断られているのが、重光の口入によって、一時的ではあるが、段銭の催促を停止する、という義満の決定がなされているのだ。このことは、義満(幕府)の政策決定に、少なからず重光が関っていたことを示すものだと思われる。『教言卿記』では、このように重光が公家側に立って幕府側の人間に口入する、という事例を多数確認することができる(10)。重光は、義満の正室である日野康子の弟であり、将軍家との姻戚関係が数々の口入をなしえた大きな理由であると思われる。しかし、同じく伝奏である広橋仲光も同様のことを行っており(11)、伝奏という政治的地位も少なからず関係していたと推定される。
 もともと伝奏は、諸訴の目録を職事から受け取り、上皇の判断を求める、といった下から上への情報伝達の任にもあたっていた。このことから、伝奏である重光、仲光に公家衆が口入を頼む、といった図式も自然に思える。また、義満はこのような口入を公家衆の支配に利用していたのではないか。当時の公家衆は、国人などの押妨によって所領を脅かされていた。この問題を解決する力を持っていたのは唯一義満(幕府)のみであり、それに頼らざるを得なかったのだろう。それら公家衆の訴えに対する窓口として機能したのが伝奏であったと考えることができる。義満の「仰」を奉じ、ほとんど義満(幕府)の専属下に置かれた伝奏に助力を求めるといった行為は、義満(幕府)の支配下に入るのとほとんど同義であり、義満はこれによって公家衆を支配している、という既成事実を積み重ねていったのではないだろうか。つまり義満は、伝奏奉書を介した公的な手段による支配だけではなく、伝奏の口入という非公式な手段をも利用して支配体制を確立していったのである。このように公家衆が伝奏を介して義満(幕府)の支配下に入っていく、という流れは、寺社においても同様であったろう。つまり、南北朝末から南北朝合体、義満政権の確立という流れは、強大な権門(幕府)に小さな権門(朝廷・寺社)が吸い寄せられていく過程であると見ることができる。ここにおける伝奏の役割とは、幕府と公家衆・寺社を結ぶパイプであり、両者の結びつきをスムーズにする円滑油であった。具体的には、①室町殿・北山殿の意向を公家衆・寺社に伝達し、政策の遂行を促すこと。②場合によっては、幕府・朝廷の機関にそれを伝達し、書状の発給を促すこと。③公家衆・寺社からの諸訴を室町殿・北山殿に取り次ぐこと。これらが主な役割だったと思われる。
 伝奏は応永年間に入ると、義満の仰を奉じる伝奏奉書を発給するようになり、実質的には義満の専属下に入ったと言っても差し支えはないだろう。しかし、それはあくまで実質的なものであって、形式的には伝奏は未だ朝廷の支配機構の中に置かれているのであり、幕府機構の中の「伝奏」ではなかったのである。伝奏が幕府側の人間に伝奏奉書を発給している、という事例もあり、それは従来の伝奏とは異なる役割ではあるが、それをして伝奏が幕府機構に完全に組み込まれたとは言い難い。依然として伝奏奉書は畿内の有力寺社・公家衆に関することを専らの任としており、幕府側の人間に奉書を発給した事例も、その管轄に関することだからである。
義満は伝奏奉書という朝廷側の文書を利用して公家衆・寺社支配を行ったのであり、独自の支配機構を創り出した訳ではない。義満が最終的に「皇統の乗っ取り」を考えていたのかはわからないが(12)、朝廷という支配機構を存続させたまま、それを利用して国政を行う、というのは義満政権の特色であり、また弱点でもあった。義満の執政は、彼個人の超越的な権力を背景とした一時的なものであり、非制度的な「日本国王」というポジションに、臨時に就いたとも考えることができる。この「日本国王」とは、あくまで非制度的、臨時のものであり、室町殿の権力が勢いを失っていくと同時に、存続していた王朝の支配機構が息を吹き返し、伝奏もあるべき所(上皇天皇)へと戻っていったのではないだろうか(13)。


(1)『教言卿記』応永十三年八月十三日条
(2)同応永十三年八月十四日条
(3)同応永十三年八月十七日条
(4)同応永十三年八月七日条
(5)同応永十三年八月九日条
(6)同応永十三年八月二十四日条
(7)同応永十三年九月十七日条
(8)京済とは、南北朝室町時代に幕府が課した一国平均役を、守護の手を経ず直接幕府や当事者に納入することである。負担軽減などの理由から、納税者側(有力寺社や公家衆)が希望して行われた。(百瀬今朝雄「段銭考」『日本社会経済史研究』吉川弘文館1967)
(9)『教言卿記』応永十三年九月十八日条
(10)官位昇進については3件、公家の所領問題については7件確認することができた。
(11)『兼宣公記』応永十年二月四日条、同五日条、同六日条、同十六日条
(12)義満の王権簒奪計画については、古くから、田中義成氏(『足利時代史』第7章「義満の非望」講談社学術文庫 1923)、渡辺世祐氏(「足利義満皇胤説」『国司論叢』文雅堂銀行研究社 1956)が指摘されており、最近では今谷明氏が研究されている(「足利義満の王権簒奪計画」『室町時代政治史論』塙書房 2000)。数々のパフォーマンスや、正室・康子の准母の件など、確かにそれを思い起こさせる事例はあるが、それを明確に裏付ける史料がなく、加えて義満が急死したことにより、「真実は闇の中」と言わざるを得ないように思う。
(13)嘉吉の乱以後、室町殿の権威は急速に衰えていき、伝奏奉書の「仰」の主体が室町殿から天皇へと変化した、と伊藤氏は述べられている。これについての私見は「おわりに」で述べたい。


おわりに
 脇目も振らず突っ走った、という感じしかしないが、ここでは義満以後の伝奏に関する研究に触れ、それについてのおおまかな私見を述べて本論の結びとしたい。
 富田氏は、室町期に出された、祈祷に関する伝奏奉書と綸旨について検討されている(1)。義満・義持の仰を奉じた伝奏奉書が、いずれも将軍職を辞し、後継将軍に対して「院政」を行った時期に限られている点に注目され、そこから、伝奏が院と室町殿の共有物であり、室町殿が伝奏を公然と用いるためには、将軍を辞し、みずからを上皇に擬すことが必要であった、と述べられている。これが義教の時代になると、将軍を辞することなく、伝奏と伝奏奉書を独占して、武家単独の国家的祈祷を行うようになり、室町殿が公家支配を貫徹している機関は、延徳年間の前後まで続いた、と推定されている。
 伊藤氏は、嘉吉の乱によって幕府側の威光が相対的に低下し、それにともなって朝廷側の権威が上昇したことを指摘している(2)。嘉吉の乱後の所領安堵に関する伝奏奉書、南都伝奏・神宮伝奏が出した伝奏奉書を検討し、それらの「仰」の主体が従来の「室町殿」から「天皇」へと変化したことを指摘された。、これは嘉吉の乱によって将軍義教が殺害され、幼少の将軍義勝が出現することにより、室町殿の「仰」を伝奏が奉じて、奉書を当事者に下す、という関係がほぼ解消し、伝奏が公家権力機構内で働くようになったことを示しているとした。また、嘉吉の乱後に治罰の綸旨が復活したことと、公家の所務相論における綸旨が公家側の意向を強く意識していることを挙げ、これは幕府が将軍の脆弱性という弱点を朝廷の伝統的権威で克服しようとしたものであり、このことから朝廷側の権威上昇、さらに天皇そのものが国政の中心的存在として復活したことを示した。これらの点から、「義教時代以降、伝奏と伝奏奉書は室町殿の専属下におかれた」とする富田氏の論に疑問を呈している。
 これに対して富田氏は、伊藤氏の論を認めつつ、同じく嘉吉の乱後の院宣・綸旨について検討し、再反論を行っている(3)。まず、義満の執政を「公家側の政務」の代行であるとし、これ以降の室町殿の政治体制を「公武二頭政治」または「公武融合政治」であると規定した。また、公武二頭の体制を超克しようとした義満期や、極端な室町殿の専制体制とした義教期の執政を特異な時代とし、室町期の国家・政治体制の典型を義持・義政期とした。そこにおける伝奏の役割を、公武に祇候し、奏聞し、それぞれの仰を奉じ、最終的には室町殿の命を遵守する形であると規定した。それらを前提として、院宣・綸旨の発給過程、治罰・追討・祈祷・所領安堵の院宣・綸旨について検討を行っている。院宣・綸旨の発給過程については、伝奏が室町殿と接近することによって、伝奏と「公家の政務」との間に間隔が生じたこと、このことから、伝奏本来の役割が内侍に移り、天皇の「仰」を女房奉書をもって伝奏に伝えるようになったことを指摘している。また、院宣・綸旨が室町殿の指示を受ける伝奏を介さなければならず、公家側が自由に内容を決めることができなかったことを示し、院宣・綸旨が諸権門の申請なしには発給できない、きわめて受動的なものであったこととしている。治罰・追討の院宣・綸旨については、それが武家側の要求によってのみ発給されていたこと、祈祷・所領安堵についても、あくまで室町殿の御判御教書などの代用として発給されていたのであり、武家文書との対比において従とする位置づけを示した。さらに、「公武二頭政治」を、律令天皇制の代替であるとし、室町殿の政務決裁にゆだねられる政治と規定した。その室町殿が決裁できない状況下では、伝奏と管領・奉行人とが相談し、あるときには「公家の政務」に代替させ、あるときには「仰」の主体を曖昧にした伝奏奉書・管領奉書・奉行人奉書をもって沙汰していることから、公家文書・武家文書という区分が意味を失ってきており、当時の文書こそ公武融合の政治文書だとしている。
  以上、伊藤・富田両氏の論点を整理した。両氏ともに、嘉吉の乱後に出された院宣・綸旨について検討を行っているが、その評価には若干のズレがあると思われる。
 両氏の意見の相違について、上島有氏は、両者の中世国家の理解の仕方の相違によるものであると指摘している(4)。つまり、中世国家を公家政権と武家政権の2つが相対立する二元的な国家と考えるか(伊藤氏論文)、公家政権・武家政権はいずれも権門国家内の政権担当者であるとする一元的な国家と考えるか(富田氏論文)という見解の相違にもとづくものであるとした。これは、室町時代の国家権力を一元的なものと考える佐藤進一説(将軍権力=王権とし、義満の段階に封建王政が確立したとする説)、永原慶二説(南北朝期に職の体系の崩壊がおこり、室町期の将軍は明白に王権を掌握しているとする説)と、二元的なものと考える黒田俊雄説(義満は封建王政に近い政治機構を作り上げたが、国王としての天皇を否定したのではなく、室町幕府を権門体制の第三段階の権力であるとする説)との対立だと指摘し、この意見の相違は中世国家の理解の根幹に触れるものである、とされた。
 富田氏と伊藤氏の主張は、論文を見るたびにいちいち納得してしまい、どちらがどの程度の整合性を持っているのかよくわからない、というのが正直な感想だ。ただ、義持・義政期を「公武二頭政権」と規定し、そこで公武の融合が進んでいた、とする富田氏の論は非常に興味深い。義満期の公武関係を見てきて、当時の武家と朝廷・寺社は、切っても切り離せない、相互に依存した関係なのではないかと考えた。朝廷・寺社が、自身で解決できない問題を抱えるにいたり、強大な力を持った武家を頼る、という構図は昔から何となく考えていたことだが、武家が朝廷の支配機構を利用した、ということは、武家単独で日本の全てを支配することができなかったことを示しているように思う。当時の天皇家及び朝廷の観念的権威がどれほどのものであったかは、恥ずかしながら不見識であるが、やはり未だ相当なものがあったのだろう。その朝廷の支配機構に深く切り込んでいき、あたかも皇統乗っ取りを思わせるようなことを行った義満が、あと少し、もう五年ほど存命していれば、日本の歴史は大きく変わっていたのかもしれない。
 それにしても、国家体制を分析するという作業の何と難しいことか。武家と朝廷の関係というのは、中世から近世にかけて非常に重要な問題となるのであろうが、こと室町時代においては、幕府と朝廷が非常に近い位置にいることが、国家体制の解読を難解なものとしているように思う。両者を分析するためには、永い時と膨大な知識が必要であり、今更ながら歴史学の深遠さにたじろがざるを得ない。


(1)富田正弘「室町時代における祈祷と公武統一政権」
(日本史研究会史料研究部会編『中世日本の歴史像』創元社 1978)
(2)伊藤喜良「伝奏と天皇嘉吉の乱後における室町幕府と王朝権力について」
     (『日本中世の王権と権威』思文閣出版 1993)
(3)富田正弘「嘉吉の乱以後の院宣・綸旨―公武融合政治下の政務と伝奏」
     (小川信編『中世古文書の世界』吉川弘文館 1991)
(4)日本古文書学会『日本古文書学論集』7 (吉川弘文館 1986)